私立踏青学園は偏差値でいえば中の上程度の進学校である。
しかし毎年、甲子園や花園、国立競技場などに県の代表校として選手を送り出しているため、知名度は全国規模だ。一般生徒のほかにスポーツ選抜枠を設けていることもあって、校外に幾つものグラウンドを所有している。
さて。
校舎から一番遠くはなれた、最も面積の狭いグラウンドのはしっこに、灰色のプレハブがいくつか建っている。
そのなかでも極端に小さい仮設校舎の、立てつけの悪い扉のわきにボロいプレートがかかっている。判読に困るぐらいかすれた字で『男子ボクシング部』と書かれていた。
プレハブの中はいくつか薄汚れたサンドバッグやパンチボールが天井にぶら下がっている。中央には粗末なリングが設置されていた。しかし外観ほど汚いというわけではない。むしろ清潔に保たれているといっていい。ベニヤ合板の床はきれいに磨きあげられている。
この場合、“磨きあげられている”というのは静止した状態ではなく、変化している様相をあらわしている。つまりは、男子ボクシング部員・蘭堂龍人によって床は現在磨きこまれている最中にあった。
シャツにトレーニングウェア姿の龍人は年頃の男子にしては小柄で、飾り気のない眼鏡をかけている。
そんな彼が熱心にモップがけする様は、あまりボクサーには見えない。
「よし……とりあえず、こんなものか」
龍人はモップ片手に汗をぬぐった。
日はやや傾いたものの、まだ夕暮れには遠く学区内では部活動の真っ最中である。現にとなりのアマレス部は日課の走りこみで留守にしている。
ではなぜ龍人はウォーミングアップも筋トレもスパーリングもすることなく、ひとり部室の掃除にはげんでいるのか?
理由はいくつかある。
一つ、掃除は龍人にとってウォーミングアップの一環である。
一つ、プッシュアップや腹筋するとき、床が汚れていると身体も汚れる。
一つ、スパーリングする相手がいない。
そう。
龍人は現在、男子ボクシング部ただ一人の部員だった。
昨年までは幾人かの同学年の部員と2年生の先輩がいた。しかし先輩方は、顧問が50歳の老教師でほとんど部室に顔をださないことをいいことに、1年の龍人たちを使い走りにして好き勝手やっていた。
ろくに練習に参加することもできず、龍人以外の1年はすぐ部を辞めた。他の部に移った彼らは、部室のすみでサンドバッグを叩きひとり筋トレにはげむ龍人を“マゾパシリ”などと呼んで笑った。
先輩部員たちは練習がすむと、汗ばんだTシャツやら色々と汚れ物を龍人におしつけ部室の掃除を命じてから、早々に帰ってしまう。
外に設置された共同の洗濯機に服を放りこみ、ひとり部室の床をモップがけする。物干しを終えて、施錠をすませて鍵を管理室に返す頃には日もとっぷりと暮れていた。
そんな感じで一年が過ぎた。
そして現在、男子ボクシング部はどうしようもないほど廃部の危機にあり、龍人はどうすることもできずに床にモップがけする毎日を送っている。
(あと、3人……。
あと3人いれば、とりあえずは存続できるし全国大会にも出られるのに……)
先輩方は早々に引退し、後輩はひとりも入ってこない。
「はぁ〜あ……こんなはずじゃ、なかったんだけどな」
モップにもたれかかるようにして龍人はため息をついた。
床はぴかぴかになったが、龍人の頭のなかはドドメ色ににごっていた。
と――
「失礼します。ここってボクシング部ですかぁ?」
とつぜん、よく通る声が扉の向こうからした。
男くさいボロっちいプレハブには似つかわしくない、女子の澄んだ声だった。
インタージェンダー!
ROUND1 コウハイファイト
1.やりましょう、ボクシング
扉のまえに立っていたのはブレザー姿の少女だった。
龍人が彼女に最初に抱いた印象は“委員長”。背丈は龍人より小柄で150センチくらい。眼鏡のレンズの向こうから、やや鋭い瞳で見つめてくる。長い黒髪は後ろで束ねられ、春風にかすかに揺れていた。肩から鞄をさげ、片手にサブバッグをもっている。
「え……っと、君、だれ?」
とつぜんの来客に龍人は面食らった。
顧問ですら顔を出すことのない男子ボクシング部、ここ数か月ない珍事である。それが女子とくればなおさらだ。
「あなたはボクシング部のひとですかぁ?」
彼女は質問に質問で返してきた。凛とした声だが、語尾が妙に後に引くしゃべり方だった。
「あ、うん。2年の蘭堂っていうんだけど……。
それで、君は?」
「ふぅん……」
あくまで龍人の問いには答えず、彼女はきょろきょろと部室内を見回し、
「ほかにだれもいないみたいですけど、先輩ひとりだけなんですかぁ?」
ぐさりとくる直球を放った。
「――っ!! そうだよ。現在、絶賛部員募集中っ!
で……廃部寸前のわがボクシング部に君はいったい何の用なんだい?」
龍人の声が自然と大きくなった。
「ああ、そうですねぇ。自己紹介がまだでした」
ようやく、彼女は涼しげな顔でくるりと向きなおると、
「――榑井静香です。1年です。
ボクシング部に入部希望です」
龍人にむかって微笑んだ。顔つきが整っているので愛らしいが、心のこもってないことが丸わかりな営業スマイルだ。
「入部……? マネージャー志望ってこと、かな」
なにやらマイペースな下級生に圧されつつも、
(女子マネージャーか。ウチにそんな余裕はないけど……。
あ、でもこの娘けっこうかわいいし、これで入部希望者が増えるかも)
龍人はそんなことを考えた。
“静香”と名乗った少女は眉をぴくりと上げると、営業スマイルを消した。
「先輩? わたしは“入部希望”といったんですよ。
マネージャーなんてする気はないです。だいたいこんな廃部寸前の部活に必要なんですかぁ、そんなもの」
「んな……っ」
ずけずけと言う静香に、ふたたび頭に血が上りかけたが、
「……君、女子でしょ?」
「男に見えるんでしたら、眼科行った方がいいですよぅ。ボクサーにとって視力は重要ですからね」
と、静香はふたたび微笑んだ。
今度の笑みには感情がこもっていた。試すような、悪戯っぽい表情だった。
「……目が悪いのは遺伝だ。
君の目も、あまりボクシングに向いていないようだけどね」
龍人は不機嫌さを隠そうとせずに言った。一見、毒にも薬にもならない眼鏡っ娘な静香の性格がだいたいのみこめてきたらしい。眼鏡ごしに軽くにらみつけた。
「あはっ、おたがい辛いですねぇ。わたしも両親が目悪いんですよ」
上級生の皮肉を静香はさわやかに流し、
「でもわたし、これでも結構運動神経いいんですよ?
体育だっていつもA評価ですしぃ」
どうだ、と胸を張る。1年生にしては豊かに育っている。
「いや、そういうことじゃなくて……」
龍人は頭痛をこらえるように眉間を指でおさえながら、
「ウチは 男 子 ボクシング部なんだけど」
“男子”の部分を一字一句強調して言った。
対して静香は、
「知ってますけど?」
それが何か? とでも言いたい口調だ。
「いや……知ってるなら、女子ボクシング部に行こうよ」
「この学校には女子ボクシング部なんてありませんよ。
先輩、知らないんですかぁ?」
知らなかった。
「それに……男子女子でいちいち区分けするなんて、時代錯誤ですよぅ?
ボクシングの全国大会は男女関係なく、出られるんですから」
それは知っている。
5年ほど前からだろうか。男女平等の風潮に呼応して、全国大会も男女混合のものが増えてきた。
いち早く男女の垣根が取り払われたもののひとつが、ボクシングだ。
なんでも昨年の大会では(踏青学園男子ボクシング部は予選1回戦で早々と敗れたため龍人はよく知らないが)最優秀選手に女子が選ばれたらしい。
「というわけで、入部希望です。よろしくお願いします。では、失礼してぇ」
「あっ」
ぺこりと一礼すると、静香はずかずかと部室にあがりこんできた。
「ちょっ……ちょっと?! まだ、許可したわけじゃ……」
「えー。許可って先輩が出すんですかぁ」
龍人が慌てて止めると、静香は疑わしそうな目をした。
「ぐ……そりゃ廃部寸前だし、そういう権限があるのかどうかもわからないけどさ。
でもっ、いちおう男子ボクシング部の伝統を引き継ぐ部長の立場としては……」
「いいじゃないですか。ちょうどいい機会ですし廃部しちゃいましょうよぅ。
それで改めて“男子”を抜いたボクシング部を設立すれば」
と、あっさりと静香は言った。つくづくいい性格をしている。
「か、勝手なこというなっ!!」
大人しい性格の龍人も、さすがに声を荒げる。ぎりぎり、とモップを(まだ持っていた)握る手に力がこもった。
しかし静香は特に動揺する気配も見せず、“ふむ”とくちびるに指を当てると、
「なるほど。
先輩はわたしの実力に疑問を抱いているわけですね? 男子ともちゃんと闘えるだけの実力があるかどうかぁ」
「いや……そういうことじゃなくて、君は――」
「わかりました」
静香は勝手に納得してうなずくと、
「これからぁ、やりましょう」
外人のオーバーアクションよろしく、ばっ、と腕をひろげた。
「……は?」
意味が呑みこめず龍人は眉をしかめた。
「もう先輩、鈍いですねぇ」
“どんと来〜い”と言わんばかりに腕をひろげている静香は、
「今からやりましょう、ボクシング」
にっこりと微笑んだ。
「――はぁっ?!」
龍人は今度こそ正真正銘まぬけな声をあげた。